畑恵のブログです
(前略)
龍馬の手紙から遡ること38年、1829年(文政12年)に福井藩士の子として生まれた三岡石五郎、後の由利公正は、西洋流砲術を学び武器調達に従事したことからその基礎となる財政の重要性に目覚め、また熊本藩出身で福井藩の政治顧問に招かれた思想家・横井小楠に師事することにより、儒教倫理の“至誠”を踏まえた“経世済民”、「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」を学び、かつ実践して藩の財政再建に尽力します。
由利公正の卓抜した財政手腕と志の高さ、実直な人柄を評価した坂本龍馬は、新政府誕生後の政府中枢に公正(きみまさ)を迎えるべく奔走。岩倉具視などへの強い推薦が功を奏し、公正は明治政府に参与として招かれ経済財政を担当することを命じられます。
財政的に逼塞する新政府の国家予算を調達するため、公正は太政官札(政府が発行した、日本で最初の全国紙幣)300万両の発行を提言。その成功のためにも、民衆からの信用を確立すべく新政府の大義を明らかにし、方針を示すべきと思い至り『五箇条の御誓文』の草案となる「議事之体大意(ぎじのていたいい)」を起草します。
「民富めば国富むの理」を信じ、身分にかかわらずすべての人民に志を叶える機会を与えようとした公正の草案でしたが、残念ながら朝廷の権威などに配慮した木戸孝允らによってそのニュアンスは微妙に書き換えられてしまいます。
(後略)
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http://ameblo.jp/japanvisionforum/entry-12238080634.html
南門から回廊が四方にめぐらされた本殿境内に足を踏み入れると、御本殿では一年の締めくくりのお祀り「除夜祭」が催行されているため、幣殿より先は通行止め。風に乗って時折、そこはかとなく聞こえて来る管絃の音に耳をそばだてていると、やがて式典を終えられた神官の方々と春日大社のシンボルである藤花を掲げた巫女さんが御神火を先頭に登場、境内を抜け南門から退場されて行きました。
(後略)
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http://ameblo.jp/japanvisionforum/entry-12235880838.html
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(前略)
アカデミア・ラボがどういう施設であるか、これまで何度かご紹介してきましたが、その使命は、“超える”、“つなぐ”、“変える”という3つのキーワードに集約されると思います。
日本でも有数の規模と多様性を持つ作新学院には、幼稚園から大学まで様々な年代の子どもたちが集い、多岐にわたる分野で能力や技術、専門性を有した人材が共存しています。けれど残念ながら、そうした子どもたちや教職員が各々の所属を越えて語り合ったり、共同で作業を行ったりする機会はそう多くはありません。
アカデミア・ラボでは社会に存在する様々な問題に対して、作新に関わるすべての人たちが、年代や所属、分野や専門を“越えて”自由な発想やアイディアをぶつけ合い、語り合い、知恵と力を出し合うことで“つながり”、問題解決に向けて行動し世の中を“変えて”行く場を作りたいと構想しています。
(後略)
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http://ameblo.jp/japanvisionforum/entry-12233274656.html
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(前略)
聖徳太子は、私にとって永遠のスーパーヒーローであり、歴史上最も敬愛する憧れの人物であります。半島や大陸などとの国際緊張が高まる中、遣隋使を派遣し渡来系氏族を重用するなどして大陸の進んだ文化や制度をとり入れ、「十七条の憲法」の制定により文明国家としてのガバナンスやモラルを確立し、「冠位十二階」の制定により世襲や出自ではなく人物本位・実力主義による登用や出世を可能にし、仏教をとり入れ神道とともに厚く信仰し興隆につとめた聖徳太子。
最近は「聖徳太子」という呼称が教科書から消え厩戸王と表記され、「十七条の憲法」や「冠位十二階」の制定、遣隋使の派遣などといった実績をすべて聖徳太子という一人の人物が実行したことを疑問視する学説が主流ですが、私自身は“聖徳太子は不滅”だと今も変わらず信じています。
たとえば「十七条の憲法」に記されている、ある意味とても人間臭く血の通った人間観や組織論、あるいは広く開かれた視野に基づいた俯瞰的な世界戦略や国家ビジョンなどは、やはり誰か特定の人物が発想・構想し指揮をとって進めない限り、それぞれの知恵の寄せ集めで構築・展開できるものではないと思うのです。
用明天皇の皇子であり、母は欽明天皇の皇女でありながら、天皇になることなく命を絶たれた聖徳太子。その死因は今も諸説ありますが、時代や洋の東西を問わず、理を尊び慈悲に厚く高潔で開明的な改革者の末路は悲劇的なものと決まっています。ただそれでもなお、聖徳太子は時空を超越して生き続ける、日本の歴史上最も重要であり確かな存在であったことを証明するのが、後奈良天皇以来、歴代天皇が即位式で着用された上で広隆寺に営々と贈り続けられているその御束帯ではないでしょうか。
聖徳太子に腹心として仕えた秦氏は、中国から朝鮮半島を経由して渡来した帰化人で、大勢で日本に渡って来たのは応神天皇16年と日本書紀に記されています。主に養蚕・機織を業としながら大陸や半島の先進文化を我が国に輸入することに努め、農耕や醸造、治水など、当時の地方産業発展や国土開発に貢献しました。
(後略)
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http://ameblo.jp/japanvisionforum/entry-12227979404.html
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(前略)
担当責任者であるユスフ・ハディジャ・アリム初等教育大臣は、現地トリビューン紙のインタビューに答え、「来年度初めには届けられるだろうと」話していましたが、搬送時には襲撃や略奪など様々なリスクが予想されていましたので、まさかこんなに早く、しかも正確に届けて頂けるとは思ってもいませんでした。
それだけに、カメルーンの子どもたちが私たちの贈った運動靴を確かに手にしている写真を見た瞬間、一緒に活動してきた生徒や教職員たちの顔や折々のシーンがフラッシュバックのように蘇り、しばらく涙が止まりませんでした。
20世紀に繰り返された大戦から、人類がその重要性を尊い犠牲と引き換えに学んだはずの「寛容」や「連帯」の精神といった“レガシー”が音を立てて瓦解して行くような今日この頃。何かと曇りがちな心に希望の光が差し込むようなニュースが、アフリカから届きました。
作新学院の「アフリカ一万足プロジェクト」により回収され海を渡った運動靴11,944足が、テロ組織ボコ・ハラムによって居住地を追われ国内避難民となっている子どもたちの避難先である、カメルーン極北州の小学校へ遂に到着したのです!
(後略)
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http://ameblo.jp/japanvisionforum/entry-12226254181.html