畑恵のブログです
(前略)
記者会見場には33社、110名を超える報道各社の方々が、全国から駆けつけて下さっていました。そうした皆さんから矢継ぎ早に繰り出される質問にも、今井は一度として言いよどむことなく的確に即答し続け、そのクレバーでスマートな受け答えには我が校の生徒ながら舌を巻きました。
甲子園に出発する宇都宮駅のホームでは、修学旅行に出かけるごく普通の高校生のようにいたずらそうな目をクルクルさせていた今井が、甲子園で優勝、台湾で開催されたU-18でも優勝と大舞台を経験するたび、雄々しく逞しく成長して行きました。
特に、国体が終って現役を引退しプロ志望届を出したその頃から、高校生の今井はすっかり姿を消し、代わってプロとして生きることを決意した大人の今井達也が新たに誕生していました。著しい成長ぶりを頼もしく思う一方で、自分たちの元から既に巣立ってしまったような、どこか淋しさを感じる今日この頃でした。
それでも、記者会見が終わり校庭で待ち受けていたチームの仲間に囲まれると、やはりその笑顔は無邪気ないつもの今井に戻ります。祝福と願いを込めて、作新時代の江川投手の写真をチームの仲間が持たせてくれました。
プロとしての道のりには数々の苦難が待ち受けていることと思いますが、良き仲間、良き師、良きファンに支えられて、納得の行く選手生活を一日でも長く送れることを心の底から祈っています。
全文はこちらをご覧ください。
http://ameblo.jp/japanvisionforum/entry-12213150405.html
(前略)
「東洋のシンドラー」と称され、今では偉人として知られる杉浦千畝ですが、ユダヤ人難民の入国拒否を命じた政府の訓令に反してビザを発給した彼は、帰国後に外務省から事実上罷免され不遇な後半生を余儀なくされました。
日本政府による公式の名誉回復が為されたのは2000年10月のこと。1986年に千畝が亡くなってから14年後のことでした。
第二次世界大戦中、杉原千畝がリトアニアのカウナス領事館に赴任した当時、欧州ではユダヤ人に対するナチス・ドイツの迫害が激化。ポーランドを始めドイツ占領下の地域からのユダヤ難民にどのように対処するか、国際問題となっていました。
(後略)
全文はこちらをご覧下さい。
ユダヤ人を救った杉原千畝物語 ~オペラ「人道の桜」が再演決定 迫害されたユダヤ難民にビザを発給
http://ameblo.jp/japanvisionforum/entry-12210313499.html
(前略)
畑 小針監督は野球を通して、主体性と協調性を備えた選手を育成してくれています。「主体性」と「協調性」、ともすると対立しがちなこの二つを兼ね備えることが「人間力」の基本であり、作新学院の教育の要でもあると思います。
小針 さまざまな分野で活躍されているOBOGの皆さんのように社会に出たとき、「作新学院の卒業生は本気の度合いが違う」と言ってもらえるような生徒を育てていきたいです。
まずは、新チーム全員で大優勝旗を甲子園に帰すことができるよう、さらに精進し、選手とともに成長していきたいと思います。
畑 更なる高みを目指す姿を見守っています。
今回の優勝は「作新学院」の優勝ではなく、地元の方々全員の、それも今ご健在の方ばかりでなく、学院の歴史をつながせて下さったすべての方々の“優勝”だったと実感しています。感謝をカタチにしてまたいつか皆さんにお返しできるよう、学院あげて日々新たに精進して行きたいと思います。
全文はこちらをご覧下さい。
甲子園優勝 小針崇宏監督インタビュー[2]|畑恵オフィシャルブログ
(前略)
―「文武両道」で夢を叶えられた母校―
畑 監督自身がまさに地元っ子であり、作新
の卒業生です。
自分が育った母校で指導したいという気
持ちは、いつ頃から芽生えたのでしょう。
小針 2000年のときに21年ぶりの選抜甲
子園も経験させてもらえましたし、勉強
も野球も文武両道という形でやらせても
らえました。だから、将来は母校で指導
者として恩返しができたらいいなという
気持ちは強かったです。
畑 作新で受けた教育の何が、監督の気持ち
をそこまで動かしたのでしょう。
小針 野球漬けの毎日でしたが、自分の希望す
る(筑波)大学に行かせてもらえ、夢が
目標になり、目標が達成できました。本
当に可能性を叶えられる高校だと思いま
した。
生徒たちにもそういうことを授業中に話
しています。「作新は可能性を叶えられ
る学校だ」と。
畑 文武両道という意味でも、在学中から小
針監督はいつも一番優秀なクラスに在籍
していましたしきわめて優秀だったと思
います。ただ「野球漬けだった」という
高校生活の中、どのように勉強していた
のですか。
小針 勉強は先生方の指導のお蔭で、ほとんど
授業中です。もちろんテスト前はちょっ
と時間を取っていた覚えはあります。
畑 やっぱり授業中に集中していれば、授業
だけで十分成績は伸ばせるということで
すね。
小針 要点というか大事なところだけは聞き逃
さないようにしていたと思います。ノー
トに板書を写すわけですが、書いてある
のをそのまま写すのではなく、自分なり
に付け足したり、逆に書かなかったり。
ある先生から「世界に一つだけのノート
を自分でつくりなさい」と言われたのが
きっかけでした。「後で見直したときに
自分なりのノートがあった方がおもしろ
いでしょ」と言われて、「ああ、そう
か!」と。
畑 「要を得る」ことが肝心なのは学習も野
球も変わりませんね。
小針 ただやっぱり「点数を取りたい」という
欲もあったと思います。負けず嫌いな部
分もありましたから。テスト前はしっか
りやっていた気がします。
畑 当時は全体練習が長かったと思います。
寝る時間を削ったわけですか?
小針 そのときによってです。夜通しやったと
いうわけではありません。時間を決めて
ここまで、終わらなかったら明日の朝に
という感じでした。何でも負けちゃいけ
ないですから。
畑 そうですね。何でも負けちゃいけないで
すね。
でも、休日もなく、テスト前は自主練習
ということもない時代ですよね。
小針 時間の使い方は考えてやっていました。
いかに時間をつくり、どう使うかが大事
でした。
畑 確かに、強い子、伸びる子を見ている
と、弱音を吐きませんし言い訳もしませ
ん。厳しい状況に置かれてもそれを否定
的にとらえるのでなく、どうしたらその
状況を改善できるかという見方をします
し、さらにはピンチすら自分が成長でき
るチャンスだととらえますね。
小針 どう取り組むかという前向きな発想にな
りますね。
(次回、後篇に続く…)
全文はこちらをご覧下さい。
(前略)
第三の理由は、学校という存在ほど、社会をより良い方向に変革し未来を創造する上で大きなポテンシャルを秘めた組織体はないと、私自身が信じているからです。
作新学院のスローガン、「作新民、その“人間力”で世界を変える、未来をつくる」は、単なる掛け声ではありません。
一人ひとりの力はささやかでも、それを根気強く地道に積み重ねて行けば、世の中は必ず変えて行くことができる―それは決して綺麗事でもお題目でもなく“真実”であることを、私は子どもたちと作新学院で過ごした16年間の中、何度も身をもって体験してきました。
東日本大震災をはじめとした災害復興支援や、10年を越える足尾銅山跡地への植林、800万個にせまるペットボトルキャップの回収、約1万5千足の運動靴を回収しアフリカの子どもたちに届けた「アフリカ一万足プロジェクト」
等々、思いをカタチや行動にし、それを重ね繋げていけば、ちょっとずつかもしれませんが世の中は変えられることを実感させてもらいました。
アカデミア・ラボは、地球環境保護や国内外の社会貢献活動に携わる「地球環境クラブ」や生徒会、ボランティア部やJRC部などのミーティングルームとしても使用されます。
将来的には、このラボからNPOやNGOが生まれたり、ベンチャー企業が誕生したりと、社会を変革・刷新する旗手が幾人も生まれることを心から願っています。
そしていつの日か、子どもたちの可能性や潜在能力の揺籃(インキュベーター)であるアカデミア・ラボからノーベル賞受賞者が生まれることを、私たちは秘かに夢見ているのです。
全文はこちらをご覧ください。
「アカデミア・ラボ」の使命とは ~子どもたちの潜在能力のインキュベーター